8月22日、東京オペラシティコンサートホールで開催された「ブラジル風バッハ全曲演奏会」に足を運びました。
すごいコンサートでした。ブラジルの作曲家・ヴィラ=ロボスの没後50年を記念して、彼の代表作である「ブラジル風バッハ」第1番から第9番までを1日で演奏しようという企画。「おそらく、世界初」の試みなのだそうです(指揮者ミンチュクの言葉)。歴史に残る内容といってよい。
ヴィラ=ロボスは私がもっとも好きな作曲家のひとり。クラシックの作曲家ではラヴェルと、このヴィラ=ロボスがダントツで好きなのです。
1887年にリオ・デ・ジャネイロに生まれたヴィラ=ロボスは、自身の生まれ育ったブラジルの土地に根ざした音楽を書き続けました。現代音楽の実験的な要素を持ちつつも、ブラジル独自の民謡の旋律やリズムをとりいれて、実に壮麗で躍動感に満ちた音楽を作り上げたのです。彼の音楽からは、南米の大地や空や森の情景・匂いが感じられるし、どことなく懐かしい親しみやすさがある。ブラジル国民からは「ブラジルの魂を表現した」と尊敬され慕われる国民的作曲家です。同時に、純音楽の分野で比類ないユニークな音楽を作り上げた独創的な作曲家でもありました。芸術家と大衆音楽家の両方の側面を持つ作曲家、イタリア人にとってのニーノ・ロータ、日本でいうなら伊福部昭と宮川泰を足して2で割ったような存在です。
今回のコンサートで取り上げられた「ブラジル風バッハ」とは、原題を「Bachianas Brasileiras」といい、「ブラジルのバッハ風音楽」または「ブラジル風でまたバッハ風の音楽」を意味しています。ヴィラ=ロボスは1930年から1945年にかけて、9作の「ブラジル風バッハ」を発表しました。1つ1つが個性的で、たとえば楽器編成ひとつとっても、第1番は8本のチェロのみ、第2・3・7・8番はオーケストラ、第4番はピアノソロ、第6番はフルートとファゴットだけ、第9番は混声合唱、という具合にバラエティに富んでいます。そして、それぞれが10分から30分近い長さを持つ組曲なのです。
全演奏時間はおよそ3時間。コンサートは、演奏者へのインタビューや休憩時間をはさんで、14時から19時まで、実に5時間におよぶ長さになりました。
演奏は舞台音楽や映像音楽の演奏も多い東京フィルハーモニー交響楽団。指揮はブラジル・サンパウロ出身の俊英・ロベルト・ミンチュク。意外にもこれが初来日とのことです。
プログラムは、編成の少ない作品から、厚い作品へと次第にスケールを増していく構成。
バッハ風の瞑想的な旋律を持つ第6番からスタートしました。オーケストラ曲では目立つことの少ないファゴットがフルートとともに主役を張る作品です。
2曲目は無伴奏合唱による第9番。CDなどでは合唱の代わりにオーケストラ演奏で収録されることが多く、オリジナルの合唱版が生で聴けるのは貴重です。
3曲目にピアノ独奏による第4番。酩酊を誘うようなリズム、フレーズの繰り返しが印象的でした。
そして、4曲目に8本のチェロが演奏する第1番。私は「ブラジル風バッハ」の中では、この第1番と次に演奏された第5番が大好きなのです。チェロだけのオーケストラが奏でる、スリリングでいて抒情的な曲想。ヴィラ=ロボスの曲では弦の低音域の使い方が印象的で、このチェロ8本だけの編成の曲にも、その特徴があらわれています。
5曲目はソプラノと8本のチェロの共演による第5番。ヴィラ=ロボスのすべての曲の中でも、もっとも人気のある曲でしょう。ソプラノが歌うメロディの美しさに、ヴィラ=ロボスの名を頭に刻んだという人も多いはず。私も、学生時代、ラジオから聴こえてきたこの曲でヴィラ=ロボスを知りました。ソプラノ独唱は世界で活躍するオペラ歌手・中嶋彰子。「ブラジル風バッハ」を歌うのははじめてとのことでしたが、実に感動的な、すばらしい歌唱でした。情熱的でいて、ミューズのような神秘性がある。アリアの微妙な表現を的確に歌いあげて、コンサート中の白眉といえる演奏になりました。ドレスも個性的で、ブラジルの太陽をイメージした鮮やかなオレンジ色に子どもたちが描いたカラフルな絵をパッチワークしたロングドレス。今回のコンサートのために特別に手作りしたオリジナルの衣装なのだそうです。
30分の休憩をはさんで、後半はオーケストラ曲です。
ピアノとオーケストラによる第3番、ラテンパーカッションをフィーチャーした野性的なリズムを持つ第8番、「カイピラの小さな汽車」という副題を持つ第4楽章が有名な第2番、と続きます。
実は、「ブラジル風バッハ」の中でも、オーケストラの曲はそんなに好んで聴いていなかったのです。小編成曲のユニークさに惹かれていた。今回あらためて全曲を生で聴く機会を得て、若いときには気づかなかったオーケストラ曲の魅力に気づかされて、大いに感銘を受けました。
ヴィラ=ロボスのオーケストラ曲は、「劇場的」とでも形容したくなるふしぎな個性を持っています。「劇的=ドラマティック」でも「映像的」でもない。「劇場的」というのは、楽器ひとつひとつが役者のようにそれぞれ見せ場を持っていて、その役者たちがステージの上に鮮やかな一つの世界を作り出す、とそんなイメージです。
そして、オーケストラ曲はパワフル。それぞれが4つの楽章を持ち、演奏時間も20分から30分くらいありますから、ちょっとした「交響曲」なみのヴォリュームを持っています。しかも、交響曲ならば、激しい楽章のあとにはゆったりした楽章があったり、軽快な楽章があったりして、4つの楽章のバランスが考えられているものですが、ヴィラ=ロボスの曲は、1楽章から4楽章まで、どれもテンションが高く、みんなオーケストラの全合奏で盛り上がって終わるような曲が並びます(第2番はちょっと違う)。テレビ番組でいうなら、最終回の盛り上がりが4回続くようなものです。情熱的で、踊りだすと止まらない感じ。このあたりがブラジル気質なんだろうなぁと思います。指揮のミンチュクも、リズムを強調する部分ではほとんど踊るようにして指揮していました。
ラストの曲はオーケストラが美しく色彩感あふれる音楽を奏でる第7番。「ブラジル風バッハ」の中でも演奏時間が一番長く、楽器編成も最大規模の大曲です。長丁場のコンサートにもかかわらずオーケストラのテンションは落ちず、ミンチュクも渾身の指揮でオケをリードし続けました。第4楽章のフーガの盛り上がりには客席も一緒に高揚してくるのがわかる。
伊福部昭を思わせる反復=オスティナート、民族的リズムもヴィラ=ロボス作品の特色のひとつです。伊福部作品では日本らしいエスニックな曲調になるのですが、ヴィラ=ロボスの曲では、ブラジルという土地を反映して、かつて南米に移民してきたヨーロッパの人々の音楽、特にスペインやポルトガルのリズムや旋律が盛り込まれています。さらに、アフリカの音楽の血が注ぎ込まれて、それが独特の「ブラジル風音楽」を作り上げている。この第7番にも、その「血脈」を濃厚に感じ取ることができます。
鳴り続ける拍手に、指揮者のミンチュクが何度もステージに登場しましたが、アンコールはなし。全9曲の演奏を終え、指揮者もオーケストラも疲労こんばいだったのでしょう。でも、じゅうぶん満足でした。心地よい満腹感でいっぱい。幸せな1日でした。
ふだんクラシックなんか聴かないという方も、機会があれば、ぜひヴィラ=ロボスを聴いてみてください。映画音楽にも通じる豊かなイメージとドラマ性、躍動感、美しい旋律、繊細さと壮大さ、音楽のあらゆる魅力が詰まっています。
<set list>
- ブラジル風バッハ第6番(1938)〜フルートとファゴットのための
I アリア/ショーロ
II ファンタジア
- ブラジル風バッハ第9番(1945)〜無伴奏合唱のための
I プレリュードとフーガ
- ブラジル風バッハ第4番(1930[〜41])〜ピアノのための
I プレリュード/序奏
II コラール/セルタン(ブラジル奥地)の歌
III アリア/カンティガ(歌、古謡)
IV 舞曲/ミウチーニョ
休憩
- ブラジル風バッハ第1番(1930)〜8本のチェロのための
I 序奏/エンボラーダ
II プレリュード/モヂーニャ
III フーガ/コンヴェルサ(会話)
- ブラジル風バッハ第5番(1938/45)〜ソプラノ独唱と8本のチェロのための
I アリア/カンティレーナ
II 踊り/マルテロ(槌のひびき)
休憩
- ブラジル風バッハ第3番(1938)〜ピアノとオーケストラのための
I プレリュード/ポンテイオ
II ファンタジア/デヴォネイオ
III アリア/モヂーニャ
IV トッカータ/ピカパオ
- ブラジル風バッハ第8番(1944)〜オーケストラのための
I プレリュード
II アリア/モヂーニャ
III トッカータ/カチーラ・バチーダ
IV フーガ
休憩
- ブラジル風バッハ第2番(1930)〜オーケストラのための
I プレリュード/カパドシオの歌
II アリア/われらが大地の歌
III 舞曲/舞曲の思い出
IV トッカータ/カイピラの小さな汽車
- ブラジル風バッハ第7番(1942)〜オーケストラのための
I プレリュード/ポンテイオ
II ジーグ/クァドリーリャ・カイピラ
III トッカータ/ヂザフィオ
IV フーガ/コンヴェルサ
ロベルト・ミンチュク指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
ソプラノ:中嶋彰子
フルート:斉藤和志
ファゴット:黒木綾子
ピアノ:白石光隆
合唱:新国立劇場合唱団
司会:加藤昌則
◎Bachianas Brasileiras Nos. 2,3,4
◎Bachianas Brasileiras Nos. 1,4,5,6
◎Bachianas Brasileiras Nos. 7,8,9
今回のコンサートと同じロベルト・ミンチュクの指揮による「ブラジル風バッハ」全曲録音アルバム。 演奏はサンパウロ交響楽団。


